〝わがまま〟は本当に悪か?

負けず嫌いの原点

僕には4歳年上の兄がいる。兄は保育園からサッカーをやっていて、その影響で僕もサッカーを始めた。僕は暇があればボールを蹴るような子供で、兄とも良く一緒にサッカーをした。1対1を挑むたびに僕は兄に負け、それが悔しくて悔しくて仕方なかった。それは兄との勝負に限らず、学校の友達と休み時間サッカーをやる時もそうだし、休みの日に友達を集めてやる時もそう、もちろんチームでの練習や試合の時も同じ。『負ける』ことに過剰に反応し、時に負けそうになると言いがかりを付けたり、ルールをねじ曲げたり、ジャッジに対して文句をいう事もあった。負けたら、泣きの一回を申し込み何とか勝って終わるようにしていたこともあった。それでも負けてしまう時はあるので、その時は渋々諦めた。

中学、高校、大学と勝つことに対して執着がないく、負けてもへらへらしてるような仲間が僕は嫌いだった。そんなやつに限って、口では「勝ちたいと」ふざけたことを言ってくる。もちろん人によっては、〝悔しい〟という感情を表に出さない。それはこちらが悟る必要があると思っている。また、練習で手を抜く仲間も嫌いだった。本気で練習をしなくても勝てるような相手や結果で満足できるようならそれでいい。しかし、手が届くかどうかも分からない高い目標をお互いに共有したにもかかわらず、さぼる。意味が分からなかった。

 

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大人になるということ

大人になるに連れて、そういった負けず嫌いの人、熱い人は煙たがられることが多い。もちろんそうでは環境もあるが、多くの場合がそうだ。例えば、一緒に友達とご飯を食べていてどっちの方が多く食べられるか軽いノリで食べていたとする。そんな中、終盤になって本気で言いがかりを付けて来るような友達は正直ウザい。サッカーでも遊びで友達と勝負してるのに本気になる人はうざがられる事がある。ウザがられた側はそういった経験を経て、いつの日か丸くなり始める。相手の顔色を伺う。空気を読んだふりをして、大人であることをアピールする。

22歳の僕が感じる日本という社会は邪魔者、くせ者、周囲と違う者を排除するような文化があると思う。糞みたいな文化だ。本当にそれが正しいのだろうか。誰と付き合うかは自由だ。それは紛れもない事実。嫌いな相手とは遊ばなければいいし、嫌なものとは距離を置けばいい。しかし、その結果大人は腹を割れなくなる。新しい友達ができにくくなる。狭まい空間でしか生きれなくなる。それはマイナスではないかと思う。自分と違う者を受け入れ、嫌なものは嫌と相手に伝え、悔しいものは感情に出してもいいと思っている。だから僕は大人になっても子供みたいにわがままで、自分の意見をしっかり伝えられる人を尊敬する。『自分を持っているな』と。

 負けず嫌いがサッカーに与えてくれたもの

何度も言うが僕は負けず嫌いだ。特にサッカーに関しては人から嫌われるほどの負けず嫌いさを持っている。しかし、僕はそれを誇りに思っている。なぜなら、それはいつも僕に対してプラスに働いてくれるからだ。ある時それは、僕のモチベーションになってくれる。人は弱い人間で理由をつけて怠けてしまうときがある。しかし、負けず嫌いはそんな自分の尻を叩いてくれる。ある時それは、仲間を見つけてくれる。最初に言った通り、時に自分から離れていく人がいる。しかし、自分と同じ志を持った人、共感してくれた人が近づいてきてくれる。こんな幸せなことはない。同じ志を持った仲間とやるサッカーの方が楽しいし、お互いに高め合う事ができる。ある時それは、自分を成長させてくれる。サッカーは勝負の連続だ。そんな時にその気持ちがあれば常に勝ちにこだわる事ができる。それは必然と成長につながる。

いいことしかない。いいことしかなかった。僕はこれからも負けず嫌いでいたいし、負けず嫌いでいようと思っている。負けず嫌いである気持ちを押し殺す必要はどこにもない。自分に正直でいよう。『空気を読む事が大人である事なら、僕は一生わがままでいい。』

 

 

最後まで読んで頂きありがとうございました。